先日、職場で退職の話を耳にする機会があった。会議室のドアが閉まる、あの重い音を思い出す。
「お話があります」と部下が切り出した瞬間、上司の表情がわずかに強張った。なぜ辞めるのか。辞めた後どうするつもりなのか。何とか残れないか。矢継ぎ早の問いが飛び、部屋の空気は最後まで重かった。
大の大人がなぜ自分の口で「辞めます」の一言を言えないのか。この国には今、その一言をおよそ2万円で肩代わりしてくれるサービスがある。実際に自分の職場でも、その存在を意識せざるを得ない場面が増えてきた。
引き止められて、辞める日が延びた
自分の職場でも退職を申し出た職員に対する引き止めは日常的に行われている。
基本的には応じない人が多い。だが人によっては「今辞められると困る」という申し出を受け、本来辞めたかった時期よりも実際の退職が遅れることがあった。
後任が決まるまで、繁忙期が終わるまで、理由はその都度違うが結論はいつも同じだ。退職を告げた瞬間から、自分の意思よりも会社の都合が優先される。そんな空気がこの職場にも確かに存在している。
辞めると決めた日から実際に辞められる日までの間に、どれだけの調整と我慢が挟まるか。経験した者にしか分からない距離がそこにはある。
その日、会議室の空気が変わった
以前、同僚が退職を申し出る場に居合わせたことがある。
始まりは、管理職に「お話があります」と申告するところからだった。その後、共に会議室に移動し仕事を辞めたいと切り出す。
管理職はかなり驚いた様子だった。なぜ辞めるのか、辞めた後はどうするのか、何とか職場に残れないか。矢継ぎ早に聞かれ雰囲気は終始重苦しかった。
普段の雑談とはまるで違う声のトーンだが、誰も声を荒げてはいない。それでも部屋の温度だけが確実に下がっていくのが分かった。
退職の意思を伝えるというたったそれだけの行為が、なぜここまで緊張を伴うのか。あの日の会議室の空気を思い出すたびにそう考えてしまう。
それは本当に「甘え」なのか
退職代行について語られるとき、必ずと言っていいほど出てくるのが「甘え」や「無責任」という言葉だ。
自分で言えばいいだけの話をなぜわざわざお金を払ってまで他人に頼むのか。世間の反応の多くはそういう厳しい視線を含んでおり、私の職場でもそれは変わらない。SNSでも「最近の若者は」という文脈で語られることが多く、Z世代などの呼び名で世代全体が呼ばれている。
数字を見れば、この現象がすでに一部の若者だけの話ではないことが分かる。退職代行サービスの認知度は全体で72%に達し、20代では83%にのぼる。利用した人にその理由を尋ねると最も多かったのは「退職を言い出しにくかったから」で、その数は半数に達した。
言い出しにくい。この一言の裏に、実際にはどんな職場の力学が働いているのか。世間の「甘え」という評価はその中身をほとんど説明していない。
辞めた人間は、本当に無責任だったのか
最近の調査は、「辞めた人間は無責任」という通説をきれいに裏返す結果を出している。
パーソル総合研究所の調査によれば、退職代行の利用者は一般の離職者と比べて、むしろ「チームワークを重視したい」という志向が強いという。無責任さや身勝手さとは正反対の傾向だ。
しかし、利用者の多くは職場で孤立していると感じている。直属の上司への不満を抱えていた人は約7割、ハラスメントを受けた経験がある人は約4割にのぼり、相談できる相手がいないと感じていた人が一般の離職者よりも多かった。
協調的に働きたいという理想を持ちながら、実際の職場では孤立し、誰にも相談できないまま追い詰められていく。その状態でようやくたどり着く出口が、代わりに「辞めます」と言ってもらう退職代行だったとすれば。無責任という言葉は的外れかもしれない。
代行から電話が来た日、会社が壊れた本当の理由
自分の職場では、退職代行を使った職員はまだいない。だが同業の知人の話や報道を聞く限り、利用する人の割合は着実に増えているように感じる。
以前、実際に代行業者から電話を受けたという職場の話を聞いたことがある。
そこで語られたのは「代行を使うなんて考えられない」という反応だった。本人と直接話すことができないため、その後の対応にかなり苦慮したという。引き継ぎの相談も本人への確認もすべて業者を介する形になり、通常の退職とはまったく違う手間がかかったそうだ。
引き止めても辞めさせない、辞める人間は裏切り者として扱う。そうした空気が根強く残る職場ほど、本人は最初から会社と直接向き合うという選択肢を持てない。代行業者への電話1本はその空気に対する、いわば市場からの回答なのだと思う。
業界そのものが試されている
その市場も今まさに転換点を迎えている。
2026年2月、業界大手の「モームリ」を運営する会社の社長が、弁護士法違反の疑いで逮捕された。弁護士を紹介し、その見返りに紹介料を受け取っていた疑いだという。同社は4月に体制を刷新し営業を再開している。
これまでグレーゾーンとして黙認されてきた部分に、初めて刑事罰という形で線が引かれた出来事だった。安さと手軽さだけを競う時代から、法的な健全性が問われる時代へ。この業界は今、静かに選別のフェーズに入りつつある。
代行を使う側の心理だけでなく、代行を提供する側の構造にもようやく光が当たり始めている。数万円で買えるのは「言わなくていい権利」だが、その裏側の仕組みまで健全であるとは限らない。
あの夜、会議室のドアが閉まる音

退職を告げるだけの数分間に、なぜあれほどの緊張が必要だったのか。答えは制度にはなく、その部屋に流れていた空気の中にあった。
引き止め、裏切り、気まずさ、それらを丸ごと避けるための2万円だとすれば、高いと言い切れる人は案外少ないのではないか。
転職という選択そのものに向けられる視線については、「転職は「裏切り」か?日本企業のリアルな空気感」でも詳しく触れている。辞める理由よりも辞め方そのものが評価される。この国の職場には、そういう独特のものさしが今も生きている。

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