京都で「観光公害」という言葉を肌で実感したのは、10年ぶりに訪れた2025年のことだった。修学旅行で見た記憶とはまるで違う景色が、清水寺にも祇園にも広がっていた。今回は北海道在住者の視点から、10年間で何が変わったのかを具体的に書いていく。
10年前、修学旅行で見た京都はまだ「日本の京都」だった
10年前の記憶をたどると、清水坂も祇園も確かに混んでいた。修学旅行生の団体とすれ違い、写真を撮る順番を待つことも珍しくなかった。バスガイドの旗を追いかける制服姿の集団が、坂道の景色そのものだった。
ただし、あの混雑を構成していたのは大半が日本人だった。外国人観光客はまばらで、時折見かける欧米系の旅行者は珍しさすら感じるほどだった。カメラを向けられて驚いた記憶さえある。
バスに乗れないという話は聞いたことがなかった。宿の値段に「観光客向け」という区分もなかった。土産物屋の店先も日本語の値札が並ぶだけで、両替の案内も免税の掲示も見た覚えがない。混雑はあっても、それは日本人同士の混雑だった。
2025年の清水寺と祇園で、日本人を探す方が難しかった
2025年に訪れた清水寺は、坂を上る段階からすでに様子が違った。すれ違う言葉のほとんどが英語か中国語で、日本語を話す集団を見つける方が珍しい。
祇園も同じだった。花見小路を歩く人の九割ほどが外国人という印象で、着物姿ですら海外からの観光客がレンタルして歩いている光景の方が多い。舞妓を待つ人だかりも、聞こえてくるのは日本語ではない。
金閣寺も混雑の質は同じで、境内に響く声はやはり多言語だった。順路を示す看板は日本語より先に英語と中国語が大きく書かれ、係員も英語での案内に慣れた様子だった。
10年前は「混んでいる京都」だった。2025年は「外国人であふれる京都」に変わっていた。混雑の量ではなく、そこにいる人の顔ぶれそのものが変わってしまった。この違いは体感として大きい。
コンビニの棚もレジの会話も、気づけば多言語仕様になっていた
驚いたのは観光地の中だけではない。清水寺の近くのコンビニに立ち寄ると、レジ横のポップも商品棚の案内も、英語と中国語の表記が当たり前になっている。
ドラッグストアも同様だった。免税手続きのカウンターが常設され、店員が英語で対応する場面に何度も出くわした。レジには何ヶ国語もの「お支払い方法」の案内が貼られ、店員は言語を切り替えながら次々と客をさばいていた。ここは地元の人が普段使いする店のはずだ。
観光地だけが変わったのではない。生活の基盤となる場所そのものが、観光客仕様に組み替えられている。恵庭のコンビニで感じたことのない緊張感が、京都では日常の買い物のたびに漂っていた。
ニュースが繰り返し伝える「住民の生活支障」と夜の治安悪化
京都のニュースを追うと、住民の不満はもはや珍しい話題ではない。市バスが満員で通勤や通学に使えない住民、夜間の騒音、治安の悪化を訴える声が繰り返し報じられている。
京都市は2026年3月から宿泊税の税額区分を引き上げ、最高で1万円という水準にまで踏み込んだ。さらに市バスの運賃を住民200円、観光客350円から400円という形で分けることも検討されている。
老舗旅館の中には、訪日客向け予約サイトの料金を国内向けより高く設定するところも出てきた。事実上の二重価格だ。飲食店でも、高級食材を使った高単価メニューを「インバウンド向け」として外国語で案内する動きが広がっている。
行政も事業者も、もはや「同じ料金で同じサービス」という前提を維持できなくなっている。混雑を分散させる特急バスや朝夜の観光誘導といった対策も進んでいるが、住民の不満そのものを消すには至っていない。
北海道でも同じ現象が起きている ニセコの別荘街と札幌行きの車内

京都だけの話ではない。北海道でも、似た兆候はすでに表面化している。
ニセコに足を運ぶと、田舎の風景が突然ヨーロッパの街並みに変わる瞬間がある。洋風の建物、別荘、コンドミニアムが立ち並び、日本のどこかを歩いている感覚が薄れていく。
物価も異様だ。ラーメン一杯が3000円、寿司は握りだけのコースで3万円からという店も珍しくない。地元のスーパーで買い物する感覚とは、金額の桁がひとつ違う。夏の夜でも、遅い時間までレゲエの音楽が鳴り響いている。窓の外に広がるのは雪山と牧草地のはずなのに、耳に届く音楽だけがまるで南国のリゾートだ。あそこはもう、日本とは思えない。
札幌行きの電車に乗っても、同じことを感じる。車内の半分以上が外国人観光客という便も少なくない。大きなスーツケースが通路をふさぎ、飛び交う言葉も英語や中国語、時には聞き取れない言語まで混ざる。学生時代に通っていた頃の車内とは、まるで別の乗り物だ。
観光客への「別料金」は差別か、当然の負担か
私は観光客向けの別料金に賛成の立場だ。外から来た人間が、地元の税金で支えられてきた公共インフラを、住民と同じ料金で使うのはおかしいと感じる。
もちろん反論もある。国籍や居住地で料金を分けることは差別的だという見方は根強い。旅行者の側からすれば、同じサービスに違う値段がつくことへの不満も理解できる。
それでも、住民の生活が明らかに圧迫されている以上、負担の公平性をどう設計するかという議論からは逃げられない。読者自身は、この二重価格をどう受け止めるだろうか。
京都の清水寺で日本語を探し、ニセコの電車で日本人を探す。今、日本の観光地では同じ現象が形を変えて起きている。これは京都だけの、あるいは一部の人気観光地だけの問題ではない。
10年前の修学旅行で見た京都はもう存在しない。ニセコの雪山にレゲエが響く光景も、10年前には想像できなかった。北海道の恵庭に暮らす私にとっても、この変化はもう他人事ではなくなっている。次に同じ現象が表面化するのは、案外、自分の生活圏のすぐ近くかもしれない。


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