出張で大阪に来て早々、ある違和感にぶつかった。地下鉄に乗って15分ほどの場所に向かおうとしたら、同僚に「そこ、ちょっと遠いですよ」と言われたのだ。
15分でしょう、と聞き返しそうになった。恵庭にいる自分の感覚では、15分はすぐそこ。実際に地下鉄に乗ってみると、案の定あっという間に着いてしまう。北海道の距離感でいえば、隣町に顔を出す程度でしかない。何も不便はなかった。むしろ気になったのは、なぜ「遠い」という言葉が出てきたのかということだった。
恵庭で暮らす人間の「近い」「遠い」

恵庭から札幌までは車で40〜50分。これが自分にとっての「ちょっと出かける」の範囲だ。旭川まで約2時間、これも日帰りで普通に行く距離感でしかない。釧路や函館となると3時間半から4時間半。さすがにこの2都市は「大変だな」という感覚が伴うけれど、日帰りできないわけではない。北海道で暮らしていると、距離の単位はキロメートルではなく、車のハンドルを握っている時間になっていく。
こういう距離感が体に染みついていると、15分の地下鉄移動を「遠い」と言われて戸惑うのも無理はない。15分といえば、家を出てから鍵を閉め忘れていないか確認しに戻れるくらいの時間だ。同僚の言葉を聞いた瞬間、頭の中で何かが噛み合わなくなった。同じ日本語を話しているのに、「遠い」の中身が根本から違う。
大阪で覆された「遠い」の基準
滞在中、似たようなやりとりが何度もあった。「歩いて15分」という言葉が出るたびに、少し身構えるようになっていく。恵庭で「歩いて15分」といえば、距離にして1km弱。車ならわずか3分の距離だ。だから普段の生活の中で、歩くという選択肢そのものが頭に浮かぶことはほとんどない。玄関を出たら、まず車のキーを探す。それが恵庭での当たり前の順序だった。
ところが大阪では、事情がまるで違った。徒歩15分は生活圏の中の移動として、ごく当たり前に語られている。地下鉄も電車も次から次へとやってくる。待ち時間という概念自体が、こちらの感覚とは重みが違うのだ。ホームに立って1分と待たずに電車が来る光景を見たとき、これが「15分」の受け止め方を変えているのだと腑に落ちた。同僚にとっての15分は、単純な時間の長さではなく、乗り換えの手間や人混みを含めた「面倒くささ」の総量だったのかもしれない。
本数と待ち時間が作る感覚のズレ
このズレの正体は何か。答えは電車の本数にある。
都会の地下鉄は数分間隔でやってくる。乗り遅れてもすぐ次が来るから、待ち時間はほとんど意識にのぼらない。一方、北海道の在来線は1時間に数本というのが日常だ。恵庭から札幌へ普通電車で向かうと、乗車時間だけで40分以上かかる。そこに待ち時間を足せば、家を出てから到着するまで優に1時間。鉄道の時刻表は、外出前に必ず確認するものであって、行けば何とかなるものではない。
都会の人にとっての「20分で都心に着く」は、こちらの感覚からすれば驚くほどの近さに映る。逆に自分たちが当たり前だと思っている「2時間で旭川」は、大阪の人間にとって気軽に口にできる距離ではないのかもしれない。同じ「1時間」「2時間」という言葉でも、中身の質がまるで違う。渋滞のない片側1車線の道路をひたすら走る2時間と、満員電車を乗り継ぐ1時間。体感する疲労も、まったくの別物だろう。
バグではなく、基準が違うだけ
北海道民の距離感はどこかおかしい。そんな言い方をされることがある。でも、これはどちらかが正しくてどちらかが間違っている、という単純な話だろうか。
車社会では、移動できる距離そのものが伸びていく。信号は少なく、道路は広く、渋滞に巻き込まれる機会も少ない。2時間の運転は、苦にならない移動時間として体に刻まれていく。一方、公共交通と徒歩が中心の生活では、駅からの距離や歩ける範囲が、そのまま生活圏の輪郭になる。15分の徒歩や地下鉄移動が「遠出」に分類されるのは、その基準の中ではむしろ自然な感覚なのだろう。
大阪で「遠い」と言われた15分。それは恵庭でいう「隣町」ではなく、大阪の人にとっての「隣町のさらに外側」だったのかもしれない。距離のものさし自体が、住む場所によって長さを変えている。
出張の最終日、ホテルの近くのコンビニまで歩いて向かったとき、店員に「地元の方ですか」と聞かれたことがあった。歩き方に迷いがなかったからだという。地図も見ずに歩ける範囲が、恵庭よりもずっと狭いことに、そのとき初めて気づかされた。狭い範囲の中で生活が完結している。それが都会の日常なのだと実感した瞬間だった。
距離感は生活の形を映す
大阪での5日間で分かったことがある。距離感というものは、地理的な事実ではなく、その土地のインフラが作り出す相対的な感覚だということだ。
恵庭で「遠い」と感じるまでにどれだけの時間がかかるか。それは車で何時間走れるか、という基準で測られている。大阪の人が「遠い」と感じるまでの基準は、電車やバスの本数、歩ける範囲というまったく別の物差しでできあがっている。どちらも間違ってはいない。育った環境が違うだけだ。
出張から恵庭に戻った日、車で札幌まで走りながらふと思った。この2時間を「近い」と感じる自分の感覚は、この土地に暮らしてきた年月そのものではないか。次に「遠い」「近い」という言葉を聞いたとき、その裏にある暮らしの輪郭を想像してみたくなった。


コメント