窓際族とは?仕事を与えられない社員が日本企業に存在する理由

働き方・キャリア

平日の午前十時、事務所に一つだけ動かない席がある。その方向から、聞き覚えのあるゲームの電子音が漏れてきた。ポケモンの、戦闘が始まるときのあの音だ。

彼はその日も既定の出社時刻ぴったりに現れた。決められた点検業務をひととおり終えると、あとは事務所の椅子と休憩室のあいだをゆっくりと往復するだけの一日が始まる。誰も彼に仕事を振らない。そして誰も彼を責めない。

給料をもらって、何もしない。そんな社員が実在する。なぜ彼はこの会社にいられるのか。

窓際族の一日──休憩室から聞こえるゲームの音

彼の一日は驚くほど規則正しい。始業と同時に持ち場の点検を済ませ記録をつける。ここまでは他の社員と変わらない。問題はそのあとだった。

やるべきことが尽きると、彼は自分の席に戻る。しばらく新聞を眺め、湯呑みのお茶をゆっくり飲み干し、やがて休憩室へ消えていく。数十分すると席に戻り、また少ししてから休憩室へ向かう。その繰り返しで夕方までの時間が流れていく。

電話が鳴っても、彼の卓上の内線が光ることはまずない。回覧が回ってきても、名前の欄にサインをして次へ送るだけで仕事の流れの中に席は存在しないかのようになっていた。

ひどいときには、休憩室からゲームの音が聞こえてきた。悪びれる様子もなく、退社時刻になると、これもまた判で押したように彼はきっちり定時で帰っていった。

窓際族は孤立しない──話しかける人はいる

奇妙なのは彼が孤立していなかったことだ。仕事を任せる人間は一人もいないのに、話しかける人はそれなりにいた。

窓際族と呼ばれる人はたいてい年齢が高い。長く生きてきたぶん、仕事以外の引き出しが多いのだ。釣りのポイントの話やラジコンの改造の話、どうでもいい日常の雑学、そういう話題ではこちらが教わる側に回ることも珍しくなかった。

腫れ物に触るような空気はそこにはない。むしろ休憩室での無駄話の相手として、彼は自然に受け入れられている。若手が仕事の愚痴をこぼせば、うんうんと頷いてくれた。仕事を共有しない同僚と雑談だけを分かち合う間柄。考えてみれば不思議な関係だ。

「給料泥棒」と呼ばれる窓際族への誤解

外から見れば話は単純に映る。働かない人間が働く人間と同じように給料を受け取っている。「それを許す会社の甘さと本人の怠慢の問題」だと。

海外の友人にこの話をするとまず理解されない。仕事をしていない社員が、なぜクビにならないのか。彼らの国では成果を出せなければ席そのものが消える。

給料をもらって何もしない社員という存在は、多くの国の常識からはみ出している。日本人の私たちでさえ、心のどこかで「あれはずるい」と感じているのだから。

窓際族が生まれる本当の理由は本人ではない

きっかけは人それぞれだ。役職からの降格や昇進路線からの大きな逸脱、埋めきれない能力の差、過去に社外の人間と大きなトラブルを起こしたという噂の人もいた。

けれど、そうした個人の事情をいくら並べても、肝心の疑問は解けない。能力が足りないならなぜ辞めさせないのか、トラブルを起こしたならなぜ処分しないのか。

本当の理由は彼個人のなかにはなかった。その状態を何年も許容し続ける仕組みの側にある。

解雇できない国が生む「在庫」──解雇規制と年功賃金

日本では仕事を与えられない社員がいても、その一点を理由に解雇することはできない。労働契約法の十六条は、客観的に合理的な理由と社会通念上の相当性がなければ解雇は無効だと定めている。業務を与えていないこと自体が、今ではパワハラとしてむしろ会社側の責任として扱われる。

一方で、年功序列のもとでは成果とは関係なく年齢とともに給料は上がっていく。役職手当がつけば、若手の何倍もの人件費がかかることもある。

辞めさせられないけれど給料は払い続けなければならない。この二つが噛み合ったとき、会社が選ぶのは「仕事を与えないまま、雇い続ける」という道だった。

責任のある仕事を任せて失敗されるより、何もさせずに静かに置いておくほうが、会社にとっては安全でもある。冷たい判断に見えて経営の論理としては筋が通っている。

つまり窓際族は会社の失敗ではない。解雇規制と年功賃金という制度が生んだ、きわめて合理的な在庫管理の姿なのだ。誰も彼を責めなかった理由もここにある。責めるべき相手が本人ではないことをみんなどこかで分かっていたからだ。

余談だが、この「窓際族」という言葉が生まれたのは私の地元北海道だ。一九七七年、北海道新聞のコラムが仕事を外され窓際で新聞を読む中高年を書いたのが最初とされている。北海道で働く人間としてこの符合には妙な感慨がある。

消えていく窓際族と令和の職場の変化

令和の時代、その窓際の席がいま静かに消えつつある。成果主義の広がりや早期退職の募集、業績が傾いたときの整理解雇など、安住できる隅の席は年々居心地の悪い場所になっている。

私の職場でも対応は変わってきた。窓際族になりそうな人をあえて昇任させて役職を与える。責任を持たせることで時間を持て余す隙をなくし、座って一日を過ごす自由はもう与えられなくなりつつある。

かつては制度の隙間に生まれた席がいまは制度の手で塞がれていく。また、高度経済成長を成し遂げた昭和や平成の時代と違い、令和は賃金の上昇や会社の内部留保が大きくなることにつれて、会社に窓際族を雇い続ける余裕が無くなってきたのも要因の1つだろう。

皮肉なのは責任を持たせるための昇任が、本人にとって幸せとは限らないことだ。座って一日を終える自由と引き換えに、慣れない重圧を背負わされる人もいる。彼のような一日は、数年後にはほとんど残っていないのかもしれない。

いつか自分も窓際族になるかもしれない

休憩室から聞こえたゲームの音を今でもときどき思い出す。若手だった頃の私は、あの光景をただ気の毒に眺めていた。

けれど今は少し違う。私は昇任を強く望んでいるわけではない。必要な業務を必要なだけこなし、周りとバランスを取りながら日々を過ごしている。ものすごく一生懸命かと問われれば、正直、自信はない。

あの椅子に座るのは、いつか自分かもしれない。同情という言葉は、今では少しも他人事に聞こえなくなっている。

日本の給料が年齢とともにどう決まっていくのかについては、年功賃金の仕組みを書いた記事(A1)で詳しく触れている。

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